初代の加納藩主となったのは、奥平信昌という戦国武将である。その家紋に何を使うのか、実はいささか悩ましい。以下それについて雑感を記す。
岐阜市立図書館のリファレンスデータベースでも類似の質問がきている。曰く…
その回答は、上記リンク先で分かるが、加納藩主の奥平信昌公の場合、その家紋は次のように回答される:「『新訂寛政重修諸家譜』家紋名のみ 第9(p.217)、奥平 軍配団扇、沢瀉、半月、九曜」。
ここで『新訂寛政重修諸家譜』[1] というのは、寛政年間に当時の江戸幕府が全国の諸家に命じて、その家系の詳細をまとめて提出させた、貴重な文献の一つである。印刷版も出ている。奥平家はその9冊目のp.217に出ているという意味である。各家の説明の最後に、それぞれの家紋が出ている。
他にも出典がある。『日本史諸家系図人名辞典』[2]:家紋名、図あり。奥平氏 奥平団扇(p.193)。『藩史大事典』第4巻[3]:家紋名、図あり。奥平家 軍配、三つ沢瀉、丸に沢瀉、真向き月、九曜(p.56)などである。
ここで奥平家の家紋の「軍配団扇」は「ぐんばいうちわ」と読む。大相撲でも行事が使うような、采配を振るう時の団扇(うちわ)のパターンである。この奥平信昌の軍配団扇は、有名な長篠合戦の屏風絵の中で、活躍中の奥平信昌の背後ののぼり旗にも描かれている。
次の図は大分県の中津市歴史博物館で見た、長篠合戦の屏風絵の部分を拡大したものである。右の2本の白いのぼり旗の右上には軍配団扇が描かれる。2本の中央(下半分)には「奥平九八郎信昌」と明記されている。

しかしその軍配団扇の中の模様についてはどうか。実は全部微妙に異なるのである。多くの異なる種類があるようであり、困惑する。どれが正しいのか。どれも正解なのか。
探索の過程は省略して、その結論だけを記す。
1)奥平家の嫡系の家系では、軍配団扇の中に「七階の松」が「左右対称に配置」して描かれている(これを鏡軍配団扇と呼ぶ)。[4]
2)他方で、奥平氏は元々、上州の吉井に奥平郷があった。そこからその先祖が、三河の作手に出てきた。父奥平貞能(さだよし)と本人、奥平信昌までに使われた家紋は七階ではなく「五階の松」であった。その周囲は二重(輪)になっている(これを輪軍配団扇と呼ぶ。)その一つは、愛知県新城市の作手歴史民俗資料館で見ることができる(下図)。

3)しかし、その後(奥平信昌の後)はおそらく、「七階の松」は奥平家の嫡系に使われるようになった。このためであろう「五階の松の輪軍配」は「二男以下の庶流・親族が用いた。」とされている[4]。
4)「五階の松の輪軍配」にも何種類もある。このためさらに混乱する。私としては、これは少なくとも5パターンを確認している。これらは、項を改めて紹介したい。
5)奥平家では「家臣に衣服を賜る場合、その紋があるものは全て笹にして松は許さなかった」[4]とされている。このため事実上、その事情が分からない限り、松か笹かでさらに多種類あるように見える。余計に混乱するのではないか。
このように奥平家の家紋の理解は些か複雑で、錯綜している面がある。今日の紹介は、取り敢えず以上とする。
資料
[1]『新訂寛政重修諸家譜』
[2]『日本史諸家系図人名辞典』講談社 、2003年.
[3]『藩史大事典』第4巻(中部編Ⅱ 東海【新装版】)英雄山閣、2015年.
[4] 三谷紘平『中津藩』現代書館、2014年.
