なぜ、奥平家の墓地は、高輪にあるのか。その理由は、奥平家の江戸屋敷が、南品川の高輪にあったから。今回は、その奥平家の江戸屋敷について、少し解説する。
加納藩の初代藩主をやった奥平信昌から始まり、奥平家が今も続いている。その資料の多くは、残念ながら加納にはなく、岐阜市歴史博物館の倉庫の奥深くに眠っている。しかしその代わりに、大分県の中津城の資料館に、奥平家の資料は、かなり多く展示されている。
大分県の中津市には、中津城が再建されている(昭和39年、1964)。そこは同時に、奥平家歴史資料館にもなっている。それはたとえば、岐阜県の大垣市にある墨俣城(これは平成3年に再建)が、大垣市墨俣歴史資料館となっているのと同じである。大垣市墨俣歴史資料館といっても、その展示内容は主に、墨俣一夜城に始まる木下藤吉郎(秀吉)の出世物語である。それと似ている。大分県の中津城も、奥平信昌を始祖とする奥平家の歴史資料館である。
その中津城の資料館の中に、奥平家の江戸屋敷がどこにあったかという解説資料があった。公開資料なので、ここにその写真(2024年12月著者撮影)を、下記に紹介する。
奥平家の上屋敷、中屋敷、下屋敷の3ヶ所である。
この奥平家の下屋敷は、高輪の近辺にあった。その近くに、東海寺があり、その塔頭の一つが清光院だったのである。そこに奥平家の墓地があった。





