岐阜市の南にあるのは、岐阜市の「加納」(かのう)という地域である。江戸時代初期に、美濃国の加納という場所で加納藩を創設したのは徳川家康で、その加納藩の初代藩主となったのは奥平信昌という戦国武将だった。その名前について書く。
加納藩は1601年に創設された。初代藩主奥平信昌の名前は、1575年の「長篠の戦い」の前には、奥平「貞昌」だったことが知られている。彼は長篠合戦の後、その名を奥平貞昌から奥平信昌に改名した。
ここまでは良い。しかしその旧名が奥平「定昌」だったという文献は存在しないと思う。定昌ではなく貞昌だったはず。ところがある案内板に、「定昌」と書いてあるのを発見してしまった。
「奥平家は徳川家の譜代大名で、初代定昌は美濃において十万石を領した。」
これはどう読んでも、奥平信昌のことを言っているのではないか。
なぜ、こういう誤記が生じたのか。以下に推測としての私見を記す。
1)奥平信昌が奥平貞昌と名乗っていた頃(1575年以前)、彼は三河の作手(つくで)というところにいた。その頃、彼の父の名を、奥平貞能(さだよし)と言った。この人は文献によって、奥平貞能とも奥平定能とも書いたようである。
2)このため、奥平信昌まで、作手時代には貞昌とも定昌とも書いたという誤解が生じたのではないか。
3)おそらく、奥平信昌は作手時代には奥平貞昌だった(定昌は間違いではないか)。
4)仮に元の解説
「奥平家は徳川家の譜代大名で、初代定昌は美濃において十万石を領した。」
を訂正して、
「奥平家は徳川家の譜代大名で、初代貞昌は美濃において十万石を領した。」
と書いたとしても、これはまだ、間違っている。なぜなら加納藩の初代藩主の時代には、奥平貞昌ではなく、もうその25年も前から奥平信昌と改名していたからである(こういう改名を偏諱と呼んでいる。偏諱(へんき)とは誰かの名前の一字をもらって改名すること。)
5)この意味で最終的には、元の解説つまり:
「奥平家は徳川家の譜代大名で、初代定昌は美濃において十万石を領した。」
これは次のように訂正すべきであることがわかる….のではないかと私は思う。
「奥平家は徳川家の譜代大名で、初代信昌は美濃において十万石を領した。」
以上、私の私見による推測である。これを、この案内板を書いた学芸員さんに問い合わせ中である。答えが得られたら、また報告したい。
追記:検索すると出てきてしまったので紹介しておきたい。東京都品川区の新馬場駅近くにある奥平家の墓域、臨済宗の清光院にある案内板である。
https://ja.monumen.to/spots/2477

