加納藩の奥平家の墓地は加納と高輪に、分かれているという話をする。
江戸時代初期に、加納藩という藩の藩祖となったのは奥平信昌である。その奥平家の墓の話。その墓地は、加納と高輪に分かれている。そういう話をしたい。加納というのは、岐阜市のJR岐阜駅の南にある。高輪というのは東京都品川区の高輪(たかなわ)である。
1601年に加納藩の藩祖となった奥平信昌の墓は、岐阜市の加納にある奥平町の盛徳寺(せいとくじ)という寺院にある。そこには信昌と、その正室だった亀姫のお墓が並んである。
奥平信昌の長男は、家昌という。家昌は、同じ1601年に、宇都宮藩で10万石を拝領している。この家昌以降の、奥平家の全部の墓所は、高輪、南品川に集まっている。
今回、その奥平家の(加納にある奥平信昌を除く全員の)代々の墓がある清光院を訪問した。当初は、その墓碑銘を解読しようと試みた。最初は難解だった。しかし次第に慣れた。意味がわかるようになった。実は全部、図書館の資料に出ていた。
問題はなぜ、奥平信昌のお墓も一緒に高輪(南品川の清光院)に移さなかったのか、ということだ。
答えとしては、あえて残した、一族を二分した。ということだと思う(私見)。
奥平信昌のお墓は加納に残し、2代目の家昌(宇都宮藩の初代)以降はあえて分離したのではないか。そこが奥平氏の、あるいは戦国時代の、生きるか死ぬか。生き残るか滅亡するか。そこだったと私は思う。今風に言えば、リスク分散といっても良いかもしれない。
1601年に奥平信昌は加納藩主になったが、同じ年に長男の家昌も、同じ十万石の雄藩、宇都宮藩主にならせている。そして加納藩の後継ぎは、その1年後に、信昌三男の忠政に家督を譲ってしまう。つまり奥平信昌はたった1年しか、加納藩主をやってない。こんな事は、奥平信昌が、徳川家康に、所望したからではないか(私見)。
奥平信昌は、長篠合戦の前は、奥平貞昌と称していた。その頃、奥平家の存続のため、一族を二分する密談をしている。長篠合戦をこれで乗り切った。奥平貞昌(信昌)は長篠合戦の時、21歳。父の奥平貞能(さだよし)と、自分の奥平貞昌(信昌)は、徳川・信長軍についた。他方で祖父の奥平貞勝らは武田についた。そうして長篠合戦を戦い、そして奥平家は生き延びることが出来た。
奥平家のお墓のあり方も、私には、その姿と重なって見える。
実際、加納の奥平家は江戸時代初期に3代しか続かず、お家断絶。他方で長男の家昌の家系は、ずっと繋がって、宇都宮藩から中津藩に行って、今に繋がる。奥平信昌の望んだようになったとも言える。
そういうわけで、奥平信昌のお墓は加納に。
嫡男の家昌とそれ以降(その家系)のお墓は、高輪に(南品川)。
次の写真は、東京南品川の清光院さんにあった、奥平家昌のお墓。


